何故このサイトを作ったのか
AIの台頭
LLMは何も考えていない
AIはとにかく速く多く「処理」をする。結果データは散らばるし、ハードウェアは追いつかないし、理由・根拠に乏しい情報が急速に増大している。基本的に処理の仕組みとしてLLMは多次元ベクトル空間で情報の重み付けを行い、最もユーザーが求めている可能性が高い返答文章を生成している。別に気持ちを察したり一緒に喜んだり悲しんだりしてるわけではない。有り体に言ってしまえば確率で文字列を算出しているということだ。なら「理由」「根拠」が無いのは当たり前で、人間のブルシットジョブを手伝っていても問題はない。しかし既に仕事を奪われた人間はいるかも知れないし、もっと増えるかもしれない。ただそれは本来自分がやっていたことが抽象化されているということを目に向けるといいと思う。思考の低層領域を抽象化するということは、自分がやることが高次化可能だと言えるように思う。やるべきだがやりたくないことの大部分をAIが引き受けることが可能になっていってることでより高次な概念を抽象的に取り扱えるということは、情報処理の観点としてみれば凄まじいパラダイムシフトである。
抽象化されると何が起きるか
LLMの理屈には理由がない、これは間違いない。なら何故理由もなく散逸するのか?それは人間の方に理由があるからだ。人それぞれだったとしても、こうまで生活に入り込めば何か前進するものがある筈だ。だとしたらそれは何なのか。私の考えでは、おそらく「個」の尊重、或いは没個性の更なる希釈だと思う。というのもAIが理由や根拠がない薄っぺらい情報をばら撒いているとき最も対極にあるのは「個」だ。個の形成は価値観や価値基準に大きく依存する。やりたいからやる、これはAIには不可能だ。或いは昔で言う「ロボット三原則」に従った「与えてはならない性質」かも知れない。ここで突飛な話になってしまうのだが、もし肉体や物質を一度忘れ、何らかのアルゴリズムで情報処理をし結果だけを見た時、その結果がAIによるものかAIによるものではないかという区別ができるとしたら、そこに価値観・価値基準が存在するかどうか、という基準が最も適切であると思う。欲望、願望、利己性、他責、満足、不満など、意識していなくても究極的には「価値基準によって欲望を満たす」ことがサイクルになっているのが人間ということなんだと思う。
じゃあ意思決定能力があれば人間なのか?というとそういうわけでもなさそうではある。犬にも猫にも価値基準はある。ただそういうノンバーバルなエリアはLLMが言語と数理で出来ていることを前提としているので割愛する。共通して言えることは。価値基準・価値観は確定した1つの閾値ではいということ。そして形而上学的に本能や欲望を満たすことが生物の行動であるとしたら、AIがそこに介在する余地はない。AIに奪われるものなど何もない (もちろん robots.txt を無視するような行儀の悪いスクレイピングや学習に芸術作品や値がつけられない自分の資産を奪われることは看過するわけにはいかないが) 。
端的に言ってしまえば欲を満たすにあたって必要だった低レイヤーの手順が楽になり、その分高次な欲望に目を向けやすくなる(なった)よね。というのが抽象化の直接的な恩恵であると言える。
没個性の激化
私はよく絵を描いていた時期がある。その頃に比べ画像投稿サイトを見ると「あ、AI生成だな」とわかるものが大量にあるようになった。勿論基本的に人間がAIを操作し、意図的に生成し、一定以上の審美眼を通過してそのサイトに投稿されている。にも関わらずそれを私が見るとき、 「誰が作ったか」が気にならない ということに気づいた。これに同意する人は少なくないのではないだろうか。そしてこれは汚い手段を使っている人間にとってはうってつけの隠れ蓑とも理解できる。私はAI生成を全く批判しないが、どことなく「これでいいのだろうか?」という不安を持っていることは事実としてある。
そして誰かがAI生成素晴らしい制作物を乱発していたとする。閲覧数も多く、沢山の人に気に入られているとする。なのに誰が作ったのか全く関心がわかないのは、おそらく見る側が見られる側を抽象化してしまうからだ。隠れ蓑で個性ごと自分自身を抽象化しているから、見る側も当然 「AI生成イラスト」という漠然とした概念 として抽象化されてしまうわけだ。さらに言えばAIイラストで「これはいいな!」と感じた時、何が気になるかというと 「どういうモデルのAIを使ったんだろう?」 という方向に行く。見る側が「誰の作品か」より「どのAIが作ったか」に発想が行くということは、まさにここまで述べてきたAIによる概念の抽象化が働いている。どこの何にこだわって描いたか「理由がない」イラストを、芸術とはいい難い。もしそれで何かが満たされるのならそれは「自己顕示欲」に他ならない。そしてそれは別に悪いことではない。
椎名一霤による実験
私は余り自分自身を抽象化したいという感覚、欲求がない。そこでこれまでの話を要約すると、AIがやっていることは低レイヤーのアルゴリズムの抽象化であり、その対極にあるのは欲を満たす「個」である。そこから順に考えてみると、X(Twitter)、Filmarks、note、ブクログ、Zenn等々、自分が大量のプラットフォームに発言を散らしているという現実を認識した。これは紛うことなき「抽象化」あるいは「散逸」である。実はAI云々ではなく、利便性の選択によって既にゆっくりと抽象化が私という個人の情報があちこちに散っていて、それぞれの末端から私を見た時には究極に部分的な椎名一霤になっていっていたのだ。
美しくない。
これは美しくない。なので私は少なくとも国内限定のSNSはすべてこのサイト WARFARE NOWHERE に纏めてみることにした。何処にもない、今ここにしかない戦い に挑んでみようかと。そういう思いでこのサイトを作ってみた。誰も見ないのか、興味が湧く人がいるのか、全然分からない。分からないので試してみる。そういうサイトです。